この事故で死傷者は出なかったものの、激しい火災の消火と、炎上を免れたタンク車からの燃料の抜き取り作業や復旧作業に手間取ったことから復旧が遅れ、中央線は丸1日ストップした。 乗客らが7名死亡、重軽傷者は20名以上となった。
5スハ32 266:でオハ46形に準じた広窓切妻鋼板屋根とした新製構体への載せ替えと台枠改造を施工しオハ35 1314に改番。
乗客など51名が重軽傷を負った。
事故発生場所がトンネル内だったため、復旧まで長期間を要した。
籠原電車区構内脱線事故 [ ] 1968年(昭和43年)11月23日5時40分ごろ 籠原電車区(現・籠原派出)で発行き普通列車に充当する所属165系10両編成が出区線から移動中にポイントが切り替わったため8・9両目が脱線した。 電車運転士は衝撃直前に非常制動を執っており、衝突時の速度は低かったものの、バスの乗務員乗客7人が死亡、上り急行電車の乗客13人が負傷した。 事故原因は諸説 あるが、トンネル突入時にパンタグラフが急降下して折り畳まれたことで、パンタグラフと架線との間にできた僅かな隙間にが連続発生したことで架線を溶断して垂下させ、最後尾のモハ62001の屋根に接触したことで全車両へと燃え広がったものと推定される。
19名古屋陸運支局が特別監査を行った。
この事故後、現場踏切は車両通行止めとなった。
ATCは工事中のため未使用で、運転士は本来必要な指令所の指示を待たずに列車を発車させていた。
事故は運転士が停車を失念していたことが引き金であったが、奈井江駅の助役が停止合図の赤旗をホームで振っているのを無視した上に、踏切が駅を出発する列車の汽笛を合図に手動で閉めることになっていたため、ダンプカーの横断を止めることができなかったことが、事故の原因となった。 阪急神戸線 御影駅〜六甲駅で脱線事故が発生し、騒動に 11月23日 阪急神戸線 御影駅〜六甲駅で脱線事故が発生。 南海電鉄高野線置石脱線事故 [ ] 1966年(昭和41年) 20時25分ごろ 大阪府堺市香ヶ丘町の - 間の橋梁南詰付近で、発行き直行電車(4両編成)が線路上に置かれた重さ約20 kg の石に乗り上げ、1両目が脱線し、架線の鉄柱に衝突した。
しかし、数分後所定どおりの行き違い駅で列車交換することになり、実際には下り列車が現場を通過することになったことにより、事故が発生した。
約200人を乗せた救援列車が翌日未明に西方の錦多峰川鉄橋に差し掛かったところ、そちらでも橋脚が崩壊したが、こちらは軽傷者2人で済んだ。
このため1両目および2両目の気動車が全軸脱線し、1両目は運転室が大破し、進行右側に横転し停車した。
(共同). なお、本事故で被災した車両のうち、253が翌(昭和44年)に廃車となっている。
客車は水没、乗客3名は救助されたが、残りの8名(旅客5名、職員3名)は激流に流され死亡した。
1か月後、同様事故を防止するため、近隣の2つの踏切を含め、踏切内を拡幅した。
大表沢鉄橋脱線転覆事故現場 (昭和30年) 21時5分ころ のの明島川にかかる大表沢鉄橋で、発行き列車(2両編成 モハ14033-クハ18003)が線路上に土砂があるのを発見し、非常ブレーキをかけたが間に合わず、土砂に乗り上げて脱線転覆。
南海電鉄男里川橋梁列車脱線転落事故 [ ] (昭和42年) 大阪府泉南町(現・)の「9号踏切」で、発行き下り急行電車(5両編成)が、大型車に対する通行規制はないものの狭い同踏切に進入しエンストした大型トラックの立ち往生 に気付き非常ブレーキをかけたものの間に合わず衝突し脱線転覆。 乗客約120名のうち17名が死亡、69名が負傷した。
14昨夜の阪急神戸線事故の影響で現在も新開地~夙川間で運転見合わせ。
近鉄特急衝突事故 [ ] 1971年(昭和46年) - 間の総谷トンネル内で、上本町(現在の)発行き特急電車(4両編成:)と発近鉄難波(現在の)・行きの特急電車(7両編成:・・)が正面衝突した。
回送状態であったために乗客に死傷者はない。
鹿児島本線基山駅貨物列車脱線事故 [ ] (昭和37年) 21時10分ごろ の3番線から、若い男女がを図り進入してきた下り181貨物列車に飛び込んだ。 先頭の機関車が下り本線を支障した直後に三河島駅を1分遅れで出発し下り本線を進行してきた上野発取手行きの下り電車と衝突し、脱線した下り電車は上り本線を支障した。 このため本来は急行列車用のを急遽特急「」に充当したほか、廃車代替として急遽サロ150-3を先頭車化改造して対応した。
2神戸市バスの路線にもなっている平行する道路の半分は緊急車両に埋め尽くされ、警察官が交通整理に追われていた。
室蘭本線覚生川鉄橋列車脱線転落事故 [ ] 1950年(昭和25年) 22時55分ごろ 室蘭本線(現:錦岡駅)21時25分発行き218列車(11両編成、牽引機)が同駅を1時間11分遅れで発車、駅から約2 km の地点の覚生(オコップ、またはオボップ)川鉄橋に差し掛かったところ橋脚が崩壊し、1両目客車と2両目荷物車は大破して濁流に呑まれ、3両目客車は4両目客車内に車体を半分突っ込み、死者17人、重軽傷者57人、行方不明者12人 を出した。
客車上に大破した蒸気機関車が乗り上げて客車内に高温高圧の蒸気が吹き込んだため火傷死傷者が多かった。
8000系で良かったと思う。 東武伊勢崎線バス衝突事故 [ ] (昭和41年) 埼玉県のより北約120 m離れた赤山踏切において、越谷駅行きに日光発浅草行き特急けごんが衝突、バスは約135 m、越谷駅ホームまで引きずられ大破、列車も最後尾の1両を残して脱線した。
4被災したは同年10月1日の東海道新幹線開業に伴い、九州乗り入れ改造をはじめとする転用計画に着手しており、代替車両を新造する猶予もなく、さらに予備車も皆無に近い深刻な車両不足状態となった。
京福電気鉄道では平成に入っても福井支社で半年以内に2回も衝突する事故が起こって運行停止している。
乗客は阪急が誘導し車外へ避難した。