人間を知るという問題は、神を知るという問題は、神を知るという宗教的な問題と並行関係にある。 「恋に落ちる」すなわち運命的な出会いを果たすことができれば、その人を一生愛していけると思っている人が大半だということ。 もちろん仏教も真理を追求はするが、「全知全能の神」という概念はない。
1しかし、主人がお金を稼いでくれるから私は昼間のパートで済んでいます。
すなわち、「さっきまで他人どうしだった二人のあいだの壁が突然崩れ落ちるという体験」。
そのためには、自分を尊重する必要があるそうです。
成熟した人間同士であれば、ありのままの自分として相手と向き合うことができ、お互いに相手の価値観やスタイルを認め合うことができるのです。 同じ理由でフロムは 「忍耐」についても語っています。
1習慣になっていないことは意識しないとできません。
でも、絶望的というわけでもない。
つまり意見が一致しない。
相手を幸せにしたいと思うのは当たり前のことだと思われるかもしれない。
それではいったい愛とはなにか…? フロムは 「愛は技術である」といいます。
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男女はもともと一人の人間で、2つに分けられて男女として生まれてきた者たちはお互いに自分の片割れを探してさまよっているという神話と似ている考え方ですね。
これは自然、無用な「社交」を排斥することになる。
本当に人を愛するということが理解できるようになると、毎日はより充実したものとなることでしょう。
これは医学や音楽、工学等と同様である。
現代社会の分析がするどいなぁと思った。
結婚、出産、育児、離婚、市民運動、更年期障害、老いの自覚を経て再読し、この本が何百倍も広く深い、生きる意味を照らす鏡であると思えてきた。
二人がともにこういうタイプだと相互投射になってしまい、互いが自分の問題に気づかないまま相手を矯正しようとしたり罰したりする。
いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。 必要な要素を学んだら、それを実践し能力を高めることで徐々に、愛する能力が身についていきます。 たいていの人は、相手の話をろくに聞かずに、聞くふりをしては、助言すらあたえる。
異性愛の排他性というのは、「相手を通して人類全体を愛する」、一人の人間としか完全に融合することはできないという意味。
また、「たがいに愛し合っていないが、抑制心がつよいために、喧嘩したり、不満を顔にあらわしたりしない両親」の場合、家庭内は「きちんとしている」が心から触れ合う事ができないので当惑と不安を覚え、子どもは自分の殻に閉じこもり、白昼夢にふけるようになり、その後の愛情関係においてもそうした態度を保ち続ける。
勇気とは、プレッシャーに負けない品格のことだ。
そして人はどのように孤独と向き合うべきか、よりよい人生を送るためのヒントを探っていきます。 どんな活動でも、それを集中してやれば、人はますます覚醒し、そして後で、自然で快い疲れがやってくる。 現代人はむしろ三歳児に近い。
しかし、愛するということの基本的な意味を本書で学んでおけば、落とし込むのも少しは容易になるはずです。
成長に伴って、深く核心に触れられるようになります。
彼は、日本語の「人間」という言葉が本来は「じんかん」と読まれ、「よのなか」を意味することを指摘したうえで、その語が今では個体としての「人」をも意味するようになっていることに注目します。
人を愛する(幸せにする)ためには「」に考えることが重要です。
愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。
雑多なものを切り捨てた同一性。